新宮市議会 2019-03-08 03月08日-03号
また、熊野別当やお城山周辺にあった位の高い東仙寺や今の宗応寺など、さらに戦国時代に現在の全龍寺をお城に構え、熊野の大半を平らげた堀内氏善という実質6万石を領した新宮の大名のような大きな勢力がバックにあったため、地方都市とは言えども、新宮に大規模物流拠点があったということであろうということが容易に想像できます。 新宮は、熊野川とともに一大貿易拠点として大繁盛していたと思われます。
また、熊野別当やお城山周辺にあった位の高い東仙寺や今の宗応寺など、さらに戦国時代に現在の全龍寺をお城に構え、熊野の大半を平らげた堀内氏善という実質6万石を領した新宮の大名のような大きな勢力がバックにあったため、地方都市とは言えども、新宮に大規模物流拠点があったということであろうということが容易に想像できます。 新宮は、熊野川とともに一大貿易拠点として大繁盛していたと思われます。
そこでは、文化庁から県への指導事項ということでしたが、新宮津は歴史の表舞台にもあらわれ、熊野別当家、熊野三山を歴史的背景に持つという点で、重要度は格段に上である。これが残らなければ日本史における損失である。これを新宮市に伝え、保存協議を積極的に進めてほしい。また、それとともに、重要遺構が保存されたからといって、史跡指定等の法的な保護がなされないのは問題である。
また個人的には、特に鎌倉時代の蔵というんですか、そういう交易の流通の施設のようなものが出てきたということで、私的には、丹鶴姫であるとか、新宮十郎行家であるとか、熊野別当であるとか、熊野水軍であるとか、熊野比丘尼であるとか、中世のそういう人物が生き生きと活動していた物語がまた生まれたんではないかなというふうに感じております。 ◆11番(濱田雅美君) ありがとうございます。
この闘鶏神社は皆さんも御承知のとおり、熊野三山を勧請しており、平安時代末期の熊野別当・湛快の時分に、天照皇大神十一神の勧請も受け、新熊野十二所権現神社と称されていた歴史がございます。